昭和49年04月30日 朝の御理解
御理解 第50節
「とかく、信心は地を肥やせ、常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥えをせんでもひとりでに物が出来る様なものぞ」
地を肥やすと言う事。信心の地を肥やすと言う事はどう言う事だろうか。地が肥えてくれば一人でに物が出来ると言う。お互いが願って止まないおかげが限りなく、言うなら無尽蔵の世界と、そういう世界が開けて来るのだ。地を肥やすと言う事はどう言う様な事か。私の信心を一言にして言うならどう言う事になるだろうか。私自身ひとりでに物が出来る様なおかげを事実頂いておると言う事。ですから今日は私のそういう信心を、ああそういう生き方が地を肥やすんだなあ。
地が肥えて来るんだなあ。だからひとりでに物が出来る様におかげが現われておるんだなあ、というふうに聞いて頂きたいと思うんです。今日私は御神前で『楠木正成』ということを頂いた。楠木正成。この信心も楠太りでなからなければいけないと言われておる。いろんな木がありますけれども、楠はなんぼうでも大きゅうなる。善導寺のご本山にありますあの楠なんかが、もう千何百年から経ってる訳でしょうけれども、枯れない。しかも増々大きくなる。楠太りのごたる。
そういうふうにですね。今年よりも来年、来年よりも再来年と言う様に大きゅうなって行けると言う事が、私は限りないおかげにつながらなければ出来ないと思うです。ひとりでに物が出来る様な元、土台というものがなからなければ出来ないと思うんです。それには私は、楠太りのおかげを頂く為には、いわゆる正しく茂るという、正成正しく茂ると言う事は所謂真の信心と言う事だと思うです。最近大祭を境に非常に奇跡的なおかげを受けられる方達が多くなっとる。
昨日も敬親会でしたが、ちょっと私が出られませんでしたから、西岡先生が代わりにおかげを頂いた。そして昨日一昨日、一昨々日あちらの娘さんが、広島の方からお礼に出て来まして、一晩泊まって明くる日朝帰った。その話をされたら、皆さんが大変かんめいを深くされた。自分自身も話しながら感動した。今合楽で行なわれておる信心というか、又それに伴う所のおかげと云うか、まあ言うならば、親先生の祈念力と云うか、もう只ただ恐れ入ってしまう。
今度娘さんが見えてから、只フが良かった等とは思われない。もう正しく自分のは癌であったんだとその癌がです。次々と病院を変わって行く内に、癌ではない事になってしまって、最後には何にも無いと言う事になった。その頃には病気すらも感じなくなった。こちらにお礼に出て見えましてから、それこそ頭が上がりませんでした。感激で有難い。そういう話の顛末を色々話された。
そう云う言うならば成程信心のない者やら、うすい者やらはそこに不思議なとか、奇跡的なおかげを受けなければ、神様の実在を信じられない。信じきらない。いやそう頂いておっても、おかげじゃろうかとまだうたごうておる。と言う様な人もまだいくらもある。だから、そう云う例えば言うなら念の力と云うか、御祈念の力と云うかそういう力を現わして行くと同時にです。やはり真の信心をもって現われて来るおかげとそこが相俟って行かなければならん。
そういう信心は拝んで助かるなんていうのは低級だと決め付ける訳にはいけない。けどもそれが正しい信心とは言えない。そこでなら私の信心を、皆さんがずっと見て下さるならどういうことかというと、昨日日田の竹野さんが毎日まあお参りして参ります。丁度一年前の御理解を控えておる帳面を開かして頂きましたら、「神様のご都合」と言う御理解があった。それを読ませて頂いたら、余り素晴らしいので感動した。
そしてそれを便箋に書いてきて、言うならばその日の御理解のさわりの所だけを書いて来た。そしてこれを「親先生、あなたの筆で、一筆この事を書いて下さい」と言うて持ってきた。で私は巻紙に相当長くなるんです。それに去年控えておられたその「神様のご都合」、と言う事に付いての御理解の、言うならさわりの所だけを書いてあげた。そして神様に、お届けさして貰いよったら『一切が神愛』と言う事を頂いた。例えば神様のおかげを受けても受けられなくても、神様のご都合ですよ。
言うなら先生方が「そりゃ神様のご都合」と言うけれども「そんなら先生、どげなご都合ですか」とやはり、聞きたい思いがするんですけれども、その神様のご都合と言う事はね。今あなたに説明してあげる訳にはいけんのだと言う事が説いてある。例えば難儀なことが起こった。そりゃあなたの信心が足りんからと云うご都合かもしれない。そりゃあんた廻りのお取り払いよと言う事がご都合かもしれない。けれどもその様な事では、どう云うご都合ですかと言う人は、納得がいかんのである。
まあ納得いかせられる筈がないのである。だからどういう神様のご都合ですかと言うても、それは今ここで教える訳にはいけんのだけれども、合楽にお参りさせて頂いておると、段々とはあ神様のこう云うご都合であったと言う事が判る道を、合楽では説くんだと言う事が書いてある。そしたらそれを結論するとどう言う事かと言うと、一切が神の愛である。神愛であると悟らせて頂いた時にです。
今日はある方の事をお願いしよったら『見事な豚肉を薄く切ったのと、見事に切ったなんかしゃぶ鍋でもする様にです。牛肉とちょっと見違える様な、分からん位な所を頂いた。こちらが豚肉、こちらが牛肉だなあとこう。お互いの様々な難儀の元というものは、やはりその廻りですけれども、なら廻りが悪いのじゃない。めぐりのおかげで信心が出来る。廻りのおかげで力が受けられる。
昨日久富勇さんじゃないですけどお夢を頂いた。そのお夢の中に『もう水が少なくなって土管がある大きな、もうそこに鯉がごちゃごちゃ泳いでおる』と言う所。だからお恵みが少なくなる。言うならばおかげご利益が少なくなる。ご利益がほとんどもうパチャパチャと云う位な水。水が例えばお恵みご利益と致しましょうか。ご利益の少ない時ほど実を言うたらお徳が受けられるんだ。鯉の取り良い時だと云う訳なんです「今こそ勇さんあなた達夫婦は、本気でお徳を頂かなきゃならん時だね」と言うて話した。
もう土管の中に追い込んである。しかも水が少ないから取ろうと思うたら、誰でも取れると言う様なお知らせ。そしてそのお徳を頂いて、そのお徳が成就した所から、現われて来るおかげという物は、是はもう無尽蔵である。徳に伴うて来るおかげですから、限りがないのです。そこでなら難儀とか苦労のその焦点をです。どこにおいて信心の稽古をさせて頂くかというとです。是は私の場合どんな場合であってもそれを成り行き、神様の御働きとして頂いてきたと言う事。
それは様々な事が起こって、血の涙の出る様な思いをしたという時であって苦しい時なんです矢張り。ね。けれども結果においては苦しいです。けれども有難いという答えを出して来た。幸せという字を正面に読んでも幸せなら、それを引っ繰り返して読んでも、やっぱり幸せという字に見える。見えるというより読めれる。幸せと云う字をこう書いて、それを反対にこうみる。だからご利益を受けたと言う事も幸せなら、ご利益と思われない反対の難儀なことの場合であっても、そこに幸せと感じれれる心。
それはそれを神愛と判る、悟るから有難いのである。神様がこの様にしてお徳を身に付け手下さる。此の様にして力をつけてくださると言う事が解る。ですから結局はそこの所が段々すっきりして来ると言う事なんです信心とは。なら二十年前の私の場合は、同じ事柄であっても、血の涙の出る様に思うた。けれども、よくよく考えよったら、是も神愛だと判ってお礼を申し上げてきたけれども、今の私はです。血の涙が出るのではなくて、むしろそこに有難涙がこぼれよる。
例えば反対の事の場合であっても。それだけ言うならばスキッとして来た。そこからスキッとした、言うならばおかげを段々頂ける様になったと、こう思うのです。勿論難儀な問題に直面する時に、自分の信心が足りんからだと一層の信心を試みてみます。又はこれは自分の例えば今さっき豚肉とか、牛肉とかというあのお知らせを頂いたけれど、豚肉というのは、自分自身の心が汚いからというのである。というふうに言うなら身の廻りである。自分の心が汚いから、現われて来る所の難儀。
牛肉と云うのは言わば、家の廻りである。牛のお知らせは家の廻りと言われる。家の廻りを持って難儀をしておる人。身の廻りを持って難儀をしておる人。それを私共がです。いわゆる周りの自覚に立つという。そこから廻りのおとり払いの為の一心の、一生懸命の信心も出来る。また改まる。自分の汚い物に取り組んで、それを清めて行くと云うおかげ、このことはまあだ、言うなら、味のある御理解になると思うですね。
ちょうど私が頂いたのは、しゃぶしゃぶで頂けれる様な感じの薄う切ってあるのですから、所謂あれは、濯(すす)いだり清めたりと言う様な意味です。そこに色々と御理解が頂けそうですけども、それはまあ後に致しますが、問題は「常平生からの信心が肝要じゃ」とこう言っておられる。なら平生の信心というのはです。只拝んでおります、参っておりますということではなくてです。
神様のご都合をです。段々神様の、こういうご都合であったと、段々の信心で判らして頂くところから、それも神愛であったと判らしてもらうところからです。それを、お礼を申し上げて行く信心。そう云う信心がです。私は、正しく茂って行く信心だと思う。楠太りにいよいよ大きくなって行けれる信心だと思う。いやそう云う信心をこそ、私は真の信心だと思う。
(テープ途中切れています)
天地の親神様のお計らいに依る所の修行。お計らいに依る所の難儀。それを私共に求めておられるところのものを、有難く頂いて行こうと云うのが、愈々成り行きを大事にさせてもらう。尊ばして貰うと言う事ですから、もう矢張りその信心に極まったと言う事です。そう云う信心をさせて貰う事によって、神様を信ずる力が生まれ、祈念力も生まれ、言うなら祈念力によって、それこそスプーンが曲がる様な力になりましょうし、病人が立ち所におかげを頂く様な力にもなって来るのです。
だから是は何処迄も、言うならば正面の信心ではなくて、自由の信心。そう云う信心が、根肥やしになるとは思われない。念力が強くなって来る事が、肥になるとは思われない。肥やしになるのは、どこ迄もそれは苦しいです。血の涙が出る程に情けないです。けれども、それをじっと自分の中に頂いて行く事こそがです。私は根肥やしになって行く信心だと思うです。そういう根肥やしがです。五年、十年、二十年と続けられて行くのですから、なら今日合楽で現われておる様に。
ひとりでに物が出来る様なおかげになって来つつあるのが、現在の合楽ではないかと思います。だからこの信心の調子を落とさなかったらです。愈々楠太りのおかげになって行くと私は思うです。私の後を継ぐ二代が、三代が一切の事を神愛と受けて頂ける信心さえ頂いて行ったら、愈々根肥やしの信心というか、ひとりでに物が出来る様な、おかげの世界と言う事から、愈々無尽蔵のおかげの世界に出る事が出来る様に思います。
「とかく信心は地を肥やせ」、それは地を肥やす術というのは色々ありましょう。一生懸命お参りする事は、それはそれも肥になるかも知れません。一生懸命の御用を頂くということも、それが肥やしになる事もありましょう。けれども私はその時だけ効くような、かけた時だけ効いたと言う様な肥やしじゃいかん。根づりがない。根づりのある肥料でなからねばいかん。
それを今日は私は私の信心を聞いて頂いたんです。一切が神様のご都合だと頂ける。どういうご都合かというと、もうおかげを下さろうとする、力を下さろうとするお徳を与えて下さろうとする神様のご都合以外にはないのだ。神様の愛の心以外にはなのだと、言わば、極めて頂くと言う所しかもそれがです。愈々年とともにすっきりしてくる。それをいよいよ確固たるものにして行く、そこに私は本当の意味の根肥やしの信心、ひとりでに物が出来る様なおかげの頂けれる徳が確立されると思うですよね。
どうぞ。